山車の紹介 山車の紹介 山車

川越祭りを代表する「羅陵王の山車」は、文久2年(1862)に城下十ケ町の志義町が鎮守氷川神社の祭礼に合わせて完成させている。「羅陵王」の面箱や人形頭部の差し込み方法、上下可能する左手のカラクリ仕掛け、山車の彫刻部に記された銘などから作者や年代はわかるものの、製作の経緯や費用などの詳細は、記録が消失していて定かではない。作者は、「都梁斎」を名乗っていた三代目の法橋仲秀英。秀英は代々が人形師で、初代は深川佐賀町、二代目が神田白壁町、「羅陵王」を制作した三代目は日本橋近くで「田中屋」という雛人形屋を営んでいた。人形だけでなく江戸をはじめ関東周辺における祭礼の山車も元請となって制作。それらの作品は、今なお数多くのものが伝承され、川越には6体が現存している。なかでも仲町の「羅陵王」は傑作として名高い。

人形がつける舞楽面「羅陵王」は、天下一といわれた能面作家の「出目」が有吉長門正の名で製作。山車の下勾欄腰回りに、はめこ波模様の彫刻は、島村俊豊の手による。囃子台天井の龍の絵は渡辺崋山の流れをくむ山本琴谷が描いている。

その当時にあたっては、山車の規模は小さく構造的にも簡素なものが一般的であった。川越氷川祭礼の本家である江戸の山王祭や神田祭の記録をみても、ほとんどの山車二ッ車で黒牛に曳かせていた。そして最上部の人形部分を真後ろへ倒して高さを調整する一本柱の万度型や笠鉾型が主流であった。江戸で上下に伸縮する二重鉾台型式の江戸型山車が主流でまだ唐破風仕立ての山車は見当たらない。そのわずか5年後に二重鉾で囃子台の上に唐破風まで「羅陵王の山車」のせが完成している。江戸でも珍しい豪華な山車の出現が、いかに早く、画期的なことであったかが分かり注目される。

川越氷川祭礼に関する各種の資源を調べても同じである。天保15年(1844)の「川越氷川祭礼絵馬」に描かれている十ケ町の山車は、すべて一本柱型式で上勾欄部分に人形を乗せるものに統一している。それから18年後の文久2年(1862)の川越氷川祭礼番附」を見ると、初めて志義町と南町の山車2台が二重鉾形式となっている。しかも「羅陵王の山車」には、唐破風まであり異彩を放っている。

時が移った明治34年(1901)氷川神社の玉垣竣工と8年前の川越大火からの復興を祝って明治期一番の大祭がおこなわれた。このとき、創建以来40年程を経過していた「羅陵王の山車」は大改修を行った。あるいは先の大火で部分の焼失があったのか、せいご台(台座)まわりを一新したのである。城下町川越のシンボル「時の鐘」を建てた名工として名が残る棟梁の関根松五郎によって轅と車輪を新調している。同時に山車台上部の「羅陵王」の金文字扁額を巌谷一六の書で取り付けている。さらに特筆されるには、川越の山車の大きな特徴となっている獅子台が360度水平回転する回り部台構造を他に先駆けて導入していることである。このような点からみても「羅陵王の山車」は、江戸型を超え江戸系川越型の山車として評価が高い。

昭和55年(1980)からは、「羅陵王の山車」も創建以来120年余りの歳月の中で損傷が激しく、総体的な修復を行ってきた。総合的技術指導が文化庁文化財監査官の北村哲郎氏と埼玉県文化財保護審査委員の坂本才一郎氏。具体的な修復作業は人形が京都市の美術院国宝修理所、人形装束と幕類が京都の川島織物、掛軸が東京都の得水軒、山車本体が秩父市の荒木社寺建築公務所などであった。
この文化財保護事業は、約2800万円の費用と足かけ4年をかけた昭和59年(1984)ひとまず竣工し現在に至っている。

「羅陵王の山車」は、いつの時代にも川越氷川祭礼の山車の先導的な役割を担い、注目を集めてきた。その典雅にして華麗なる雄姿は、仲町関係者の誇りであることと同時に、郷土を代表する貴重な文化遺産なのである。

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